名古屋城の写真へ All photo by ken究所長|
甲斐府中(甲府)より 61万9千石 | |
このホームページでは城地の地名を藩名とする原則で、長州藩とせず萩藩、薩摩藩とせず鹿児島藩と表示しようとしているが、尾張藩だけはなじまないので、敢えて名古屋藩とせず、尾張藩とした。
清洲の福島正則が安芸広島へ移った後、家康は四男松平忠吉を清洲に入れるが、忠吉が亡くなり、家康の九男、徳川義直が甲斐府中から入って、新たに名古屋に城地を定める。しかし当時義直は8歳に過ぎず、駿府の家康の元にあった。
豊臣恩顧大名の手伝い普請で、名古屋城と城下町の整備ができ、義直も入封する。
当初は石高が確定していなかったが、尾張一国のほか、美濃、三河、近江、摂津合せて61万9千石と定められた。木曽の山林も尾張藩の領するところと定められ、換算すると7万3千余石というが、米収ではないので、表高には含まれていない。
御三家筆頭の尾張藩であったが、結局将軍を輩出することなく終わった。
重要な時に短命の藩主が続いたりしたためである。八代徳川宗春は将軍吉宗の質素倹約政策のもと、積極経済を展開、名古屋城下は一時の繁栄を見せるが、やがて奔放政策は藩財政を圧迫、附け家老の竹腰正武が吉宗に接近するに至って、宗春は失脚、隠居謹慎を命じられる。
十代斉朝は一橋家から入って、義直の血統は絶える。この後、藩内は派閥争いが表面化し、成瀬、竹腰の両附け家老や、江戸・国許の対立など、軋轢を抱えたまま、幕末動乱期に突入する。
支藩の高須藩から入った慶勝は難局の中、尾張藩の舵取りを行い、長州征伐の総督に祭り上げられたり、謹慎隠居を命じられたり、と翻弄される。慶勝については、城山三郎氏の「冬の派閥」(新潮文庫)をお読みいただくと、慶喜の影にあって地味な義勝を視点にした維新史が新鮮で面白い。
| 徳川家康の九男 | |||
| 徳川(尾張)義直の長男 | |||
| 徳川(尾張)光友の長男 | |||
| 徳川(尾張)綱誠の九男 | |||
| 徳川(尾張)吉通の長男 | |||
| 徳川(尾張)綱誠の十一男、十三男とも | |||
| 徳川(尾張)綱誠の十九男、二十男とも | |||
| 徳川光友の四男川田久保家松平但馬守友著の長男。美濃高須藩主松平義淳となり、さらに尾張宗家を継ぐ。 | |||
| 徳川(尾張)宗勝の二男 | |||
| 徳川(一橋)治済(はるさだ)の三男一橋治国の長男。(一橋治国は将軍家斉の弟) | |||
| 十一代将軍徳川家斉の十九男 | |||
| 将軍徳川家斉の十四男 御三卿田安家を継ぎ田安斉荘となるが、尾張藩主に。 | |||
| 徳川(田安)斉匡の七男 | |||
| 美濃高須藩主松平(尾張)義建の二男 | |||
| 美濃高須藩主松平(尾張)義建の五男 初め美濃高須藩主松平義比となり、尾張宗家を継ぎ、隠居後さらに一橋家を継ぎ一橋茂栄となる | |||
| 徳川(尾張)慶勝の三男 | |||
| 美濃高須藩主松平(尾張)義建の二男 |
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