伊賀上野より 2万石 | |
伊賀上野で2万石を領していた分部光信が近江の高島、野洲二郡のうちに所領を移され、大溝に陣屋を構えて立藩。
外様の極小藩として、一家支配で明治に至る。
分部家は北伊勢の地大名、長野家の家臣だったが、分部光嘉のとき、長野家は信長に併呑され、信長の弟織田信包(のぶかね)の配下となる。のち秀吉に仕え、伊賀上野に1万石を領していた。関ヶ原の功で1万石加増、2万石となっていた。
二代の分部嘉治は、妻の叔父である池田長重と対談中に論争に及んで、ついに抜刀し、互いに斬り合って二人とも死んでしまう。
この池田長重は備中松山藩主の池田長常の弟。
池田長常は池田勝入斎信輝(恒興)の三男池田長吉の子長幸の長男で、池田長重は長幸の五男であった。
この備中松山藩の池田家は池田長常の末期養子が認められず、弟長重の刀争事件とは関係ないが、絶家となっている。四代の分部信政はその喧嘩の相手の甥になるわけだが、もちろん親戚関係があったから養子としたのだろうが、先の刃傷事件との関係は、特に記述がなく不明。
十代の分部光寧は父光邦の急逝で、2歳で藩主となる。
最後の藩主分部光謙は明治三年4月12日に父光貞が死去し、4月25日に藩主になるが、4日後には大溝藩知事となる。
上総請西藩の記述で、最後の請西藩主林忠崇が、昭和16年に最後の大名として亡くなったと(ある参考文献の記述をそのまま)書いたが、分部光謙の記述を見ると昭和19年11月に83歳で亡くなっていて、最後の大名の生き残りは、分部光謙かも知れない。正式に大名だったのは4日間だが。
| 長野正勝の長男で、分部光嘉の嗣となる。 | |||
| 分部光信の三男 | |||
| 分部嘉治の長男 | |||
| 備中松山藩主池田長幸の三男池田長信の三男 | |||
| 分部信政の二男 | |||
| 分部光忠の子(長男?) | |||
| 分部光命の長男 | |||
| 分部光庸の子 | |||
| 分部光実の二男 | |||
| 分部光邦の長男 | |||
| 上野安中藩主板倉勝尚の子 | |||
| 分部光貞の長男 |