家康は関東入りに際し、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝を上総大多喜に10万石で配す。忠勝は伊勢桑名に移るが、二男忠朝が5万石でそのまま別家を許される。本多忠朝は大坂の陣で戦死、甥の政朝が継いで、播磨竜野へ。
武蔵鳩ヶ谷より、阿部正次が3万石で入り、相模小田原へ。
武蔵岩槻より、老中を勤めていた青山忠俊が家光の勘気を被り、老中免職のうえ、減封されて入るが、その後、蟄居除封廃絶。
阿部正能が祖父の阿部正次から別家分知され、大多喜を居所に1万石で入るが、武蔵忍藩の阿部忠秋の養嗣子となることになり、武蔵忍へ。
替わって武蔵岩槻の阿部正春が自領を兄の子の阿部正邦に譲って別家を立て、1万6千石で、大多喜に入る。のち三河刈谷へ。
三河刈谷から稲垣重富が入るが、わずか20日で、下野烏山へ。
相模甘縄より松平(大河内・長沢)正久が2万石で入って、以降九代、同家の支配となる。
最後の藩主、大河内正質は幕府崩壊時、老中格で、鳥羽伏見の戦の指揮にあたり、責任者として薩長新政府から処罰される。
☆関連リンク 千葉県立総南博物館は大多喜城本丸跡に建つ。大多喜藩関連の展示豊富。本多忠勝公の有名な肖像を展示。
☆関連リンク
「房総の城跡」
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10万石 | |
| 本多忠高の長男 |
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別家 5万石 | |
| 本多忠勝の二男 | |||
| 本多忠政の二男、忠朝の甥 |
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武蔵鳩谷より 2万石 | |
| 阿部正勝の子 |
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武蔵岩槻より 2万石 | |
| 青山忠成の子 |
別家新知 1万石 | |
| 武蔵岩槻藩主阿部正次の長男政澄の長男 |
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武蔵岩槻より別家 1万6千石 | |
| 阿部重次の二男 |
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三河刈谷より 1万5千石 | |
| 三河刈谷藩主稲垣重昭の長男 |
相模甘縄より 2万石 | |
| 松平(長沢・大河内)正信の子 | |||
| 松平(長沢・大河内)正久の長男 | |||
| 三河吉田藩主松平(長沢・大河内)信祝(のぶとき)の三男 | |||
| 松平(長沢・大河内)正温の長男 | |||
| 松平(長沢・大河内)正升の長男 | |||
| 松平(長沢・大河内)正路の長男 | |||
| 松平(長沢・大河内)正路の四男 | |||
| 松平(長沢・大河内)正敬の二男 | |||
| 越前鯖江藩主間部詮勝の五男、正和の女婿となる。 |
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